300年も続いた徳川家の莫大な御用金が埋蔵されているという伝説があります。数ある埋蔵金伝説の中で最も認知度が高い伝説と言ってもいいんじゃないでしょうか。その額は360万両、現在の貨幣価値で4,000億円とも200兆円とも言われています。
そんな莫大な金額の埋蔵金は本当に存在するのでしょうか。
目次
徳川埋蔵金伝説とは?
1868(慶応4)年、3~4月頃、旧幕府と明治新政府軍(官軍)との間で江戸城を明け渡す、無血開城が行われました。財政難だった新政府は、300年も続いた徳川家の莫大な御用金を期待していましたが、いざ金蔵を開けてみると、なんとそこは空だったのです。
「そんなはずはない、きっとどこかに隠している」と躍起になって官軍は探索を開始したのです。
御用金とは
江戸時代、財政上の不足を補うために町人や農民らに対して臨時に上納を命じた金銀のこと。
---Wikipedia
そこで疑われたのが、小栗忠順(おぐりただまさ)という人物でした。なぜ疑われたのか、それは勘定方のトップとなる勘定奉行という役職だったからです。勘定奉行とはいまでいう会計職のようなもので、幕府の経理を担っていました。
そんなことから「幕府の金を持って逃げた」「誰かが何かを赤城山中に運ぶのを見た」などといった噂が飛び交うようになり、それを信じた人々が赤城山で発掘を試みたというわけです。
埋蔵されているとされる額とは
勝海舟の日記に「軍用金は360万両あるが、これは常備兵を養うための金で使うわけにはいかない」と書かれていたことが根拠になり、およそ360~400万両あると言われており、その額は日本の国家予算の倍となる200兆円以上になるそうです。
テレビ番組の発掘計画で一世を風靡
1989年~1992年にTBS系列で放送された「ギミア・ぶれいく」という番組の中で、徳川埋蔵金発掘プロジェクトが発足され一世を風靡しました。数ある埋蔵金伝説の中でも徳川埋蔵金の知名度が高いのはそのせいではないでしょうか。
100年以上徳川埋蔵金の発掘に携わってきたこの土地の所有者水野一族の協力のもと、バブル期だったということもあり3億5,000万円という莫大な費用をかけ、人員90名、重機7台を使い、最大で周囲400M、深さ60Mもの穴を掘りましたが何も見つけることはできませんでした。
水野一族がなぜ埋蔵金発掘に携わるようになったのか
水野一族初代・水野智義は、明治8年12月10日、4人の士族を集め会合を開きました。
- 東京府士族:水野智義
- 東京府士族:藤田勝義
- 福岡県士族:川上洝之
- ???士族:村田八三郎
士族とは
武士の家柄で、昭和22年頃まで戸籍に「士族」と記載されていたそうです。
集まった4人が話した内容とは、ずばり「徳川幕府の御用金を一緒に探し出そう」というものでした。
榛名山が怪しいと睨んだ4人は、手応えがありそうな場所を片っ端から掘り返しましたが成果は得られず、そして10年が経ち、とうとう資金が底をついてしまったのです。ひとり、またひとりと離れていき、智義だけが残りました。
明治19年10月5日 上野ノ国
それでも諦め切れなかった智義は、屋敷を売り払い資金を調達。単身調査を再開しました。
明治19年11月 天川大島村
ついに智義は、埋蔵金の鍵を握る人物、旧前橋藩の足軽児島惣兵衛(こじまそうべえ)に出会い、上野ノ国8ヵ所に埋蔵金があるという情報を聞き出したのです。
明治22年6月20日 津久田村
聞き込みをしていると、源次郎の井戸周辺で、慶応2年から約1年間、何らかの工事が行われていたという情報を得た智義は、井戸周辺で発掘作業を開始しました。それを窺っていた児島惣兵衛からある巻物をもらうことになります。
それは大儀兵法秘図書というものでした。
それによると、御用金埋蔵の実行者、林靏梁(はやしかくりょう)の門弟、児島惣兵衛と記されていたのです。
林靏梁は、群馬県高崎市萩原町京ヶ島出身だということがわかりましたが、水野智義は志半ばでこの世を去ることになります。
その遺志を継いだのが、長男義治と次男の愛三郎なのでした。
井戸周辺から発掘したもの
井戸から黄金の家康像と灯明皿が発見され、灯明皿には「子二十四芝下炭」など、謎の文字が刻まれていました。残念ながらどちらも手元にはなく、家康像は詐欺に遭い、灯明皿は知人の女性にあげたとのことです。
御用金埋蔵計画で最も重要とされる人物、小栗上野介=小栗忠順
18歳で江戸城に入り、とんとん拍子で出世し、34歳のときアメリカに渡航。日米修好通商条約に貢献しました。
日米修好通商条約とは
日本とアメリカの間で、貿易のルールを定めた条約です。
それから帰国した小栗忠順は勘定奉行となりますが、幕府は衰退の一途をたどり官軍と戦いますが敗北。江戸城を無血開城したのでした。
このとき小栗は最後まで戦いたいと伝えましたが、その任を解かれ江戸城を後にし、上州権田村の東善寺に移り住みます。
金蔵が空だと知り、小栗の後を追う官軍
東善寺で捕縛された小栗は、御用金のことを一切口にしなかった為、処刑されました。
完全に手掛かりはなくなったかに思えましたが、あるものを残していたのです。
小栗は江戸から権田村へ帰るまでを日記に記していた
その日記と、児島惣兵衛の「上野ノ国8ヵ所に埋蔵金がある」という言葉から小栗の足取りと埋蔵金の在り処を追ってみます。
①鬼石(群馬県多野郡鬼石町)
家族と家臣を連れて江戸を出た小栗は、かつての領地だった小林(群馬県藤岡市)の名主の家に立ち寄ったとされています。その家には今でもアメリカに渡航した際、土産として購入したカバンと、1本の槍が残されています。
そして小林のさらに奥、群馬県多野郡鬼石町の桜山の麓にあるアンノキ沢という場所に、大量の小判が埋蔵されているという伝説があり、数多くの発掘者が発掘を試みましたが何も発見できませんでした。また、その桜山の頂上には虚空菩薩という鉱山の神様が祀られています。黄金を守るためと言われていますが、祀られたのは幕末の遥か以前のことで黄金とは無関係ということが判明しました。
②倉賀野(群馬県岡崎市倉賀野町)
倉賀野には江戸から舟で運んだ家財道具を引き取るために3日目に立ち寄ったとされています。追ってきた官軍もこの場所にある倉という倉を血眼になって御用金を探しましたが見つけることはできませんでした。
果たして、1~2日という短い期間で官軍に見つからない場所に御用金を隠すことができたのか?という不自然な点があるため、埋蔵されているという可能性は低くなります。
③安中(群馬県安中市)
日記には記されていませんが、小栗は風戸峠を通って権田村に帰ったという説があります。しかし風戸峠を通れば遠回りになるため、なぜわざわざ遠回りをする必要があったのか、ということから、ここに御用金が埋蔵されたのでは?という疑惑が浮上しました。
ですが、日記に記された権田村に到着した時間から見て不可能だということが判明したのです。
④権田村榛名山(水野智義が最初に発掘を始めた場所)
権田村から見た先には榛名山があり、その頂上にある榛名神社は徳川幕府と深い結びつきがあるとされています。
そして、その般若坊という宿坊に宝と書かれた見取り図が保管されていました。
その場所を調査すると、明らかに人の手が加えられたような形跡がありました。
ですが、宝が発見されたという記録はありません。
⑤赤城村
水野智義が生涯発掘を行った場所、智義亡きあと、その遺志を継いだ長男義治と次男愛三郎は、赤城山麓の寺の境内の床下から謎の文字が書かれた銅板3枚を発見します。それを分析、場所を特定し、その二又の穴から大きな灰色の亀の文様を発見しました。そして、3代目の水野智之が引き継ぎますが断念します。
テレビ番組「ギミア・ぶれいく」でも取り上げられ、5年間発掘調査を行いましたが埋蔵金を見つけることはできませんでした。
他にも根強く残っている説があります。それは、林靏梁は倉賀野で小舟に荷物を積みかえて、利根川を上流にさかのぼったという説です。
つまり、荷物を積みかえて利根川を北上したという説ですが、ちょっと無理があるような…。
⑥猿ヶ京(群馬県新治村猿ヶ京)
ここを通る三国街道は佐渡島の金を運ぶ道として使用されたと伝わっており、別名佐渡街道とも呼ばれていました。さらに幕府直轄の関所も置かれていました。
そして、その関所跡の神明神社から埋蔵金の在り処を示すような歌が刻まれた石が発見されています。
「朝日指す、二又宇津木の根元にある」
ほとんど場所を特定したような内容ですが、30年間調査をしても何も発見できなかったそうです。
⑦根利
大儀兵法秘図書に唯一書かれていた地名が利根村根利。さらに、赤城の軍用金を埋めるところを見たという男の伝説があるといいます。この場所は、赤城村から赤城山を挟んでちょうど逆側に位置します。そして不思議なことに、江戸時代この一帯は沼田藩の領地でしたが、なぜか根利だけは遠く離れた前橋藩の領地だったという記録があります。これが事実ならかなり不自然な話ですよね。
さらに、水野智義が残した手記には、御用金埋蔵には前橋藩が深く関わっていると書かれています。そういえば、児島惣兵衛も旧前橋藩の足軽でしたね。
ですが、昭和に入って発掘調査を行いましたが、ここまで条件が揃っていても何も発見できなかったそうです。
⑧長者久保(群馬県利根郡昭和村)
東善寺で小栗を捕らえて処刑した官軍は江戸には帰らず、なぜか沼田に向かい長者久保を1年間占拠していたという記録が残っています。鎮圧するという目的にしては長期間ですし、何より不思議なことに明治5年以前の長者久保についての記録が残されていません。そして長者久保から4kmほど離れた場所に神社があります。その神社の名前が金山宮(かなやまぐう)なのです。
さらに、同じ敷地内に双永寺というお寺があり、その境内の床下からあの埋蔵金の在り処を示したとされる銅板3枚が見つかっています。
結局のところ見つかったの?
残念ながら埋蔵金を発見することはできませんでした。数多くの手がかりや伝説があるのにも関わらず、なぜ何も発見することができなかったのか?
すでに盗掘された後だったのか、それとも数多く残された手がかり自体が、官軍の気をひくためのオトリだったのか。真実は当時を知る人にしか分かりません。
しかし、埋蔵金は必ずあるという見方の人もいれば、あるはずがないという見方の人もいるのです。
その、あるはずがないという理由とは?
徳川埋蔵金架空説
- 幕末期の江戸幕府は金銭的に余裕がなく赤字続きであったことから、埋蔵するだけの蓄財があったとは考え難い
- 埋蔵するくらいなら、軍備強化などをして幕府存続を狙ったほうが良かった
- 幕末に頻発した大地震や飢饉によって幕府はかなり衰退していた
- そもそも、360万両という大金を運ぶには目立ちすぎるし、短期間に移動は不可能
- 小栗は史実では造船所などの建設を主導した人物であり、それに大金をつぎ込んだとされている
以上のような理由から、埋蔵するだけの余裕があるはずがなく、埋蔵金など夢物語だという説があります。
まとめ
児島惣兵衛の残した「上野ノ国8ヵ所に埋蔵金がある」という言葉を頼りに、鬼石、倉賀野、安中、榛名山、赤城村、猿ヶ京、根利、長者久保を調査した結果、手がかりこそはあったものの本命の埋蔵金を見つけることはできませんでした。
しかし「ない」と言ってしまえばそれまでで、「あと数センチ掘ったらあったかも」「あと数メートル横を掘ったらあったかも」と考えたほうがワクワクするし楽しいですね。